分野

評論 HYOURON

批評、論考、メディア論

評論 HYOURON 大江健三郎の晩年の散文──反復と祈り 大江の文章は、もともと長い。複文に複文を重ねる、密度の高い構造を持っていた。しかし晩年に近づくにつれて、その長さの内側で、同じ語句が螺旋のように戻ってくる回路が増えていく。 反復の機能 『取り替え子』『憂い顔の童子』『さようなら、私の本よ!』──いわゆる長江古義人三部作では、ある共通のモチーフが繰り返し書き直される。 たとえば「取り替え子」というモチーフ──主人公の友人が自殺した瞬間、その出来事を回想する角度が章ごとに変わる。事実は同一だが、語りの位置取りは異なる。読者は、同じ事実に対して、異なる距離からの応答を経験する。 祈りの形式 なぜ反復が祈りなのか。祈りとは、答えを求める行為というより、ある対象に対して言葉を向け続ける行為である。応答が得られなくても、向け続けることそのものが、祈りを成立させる。 大江の晩年の文体は、答えのない問いに対して、語りの角度を変えながら同じ対象に向かい続ける構造を持っている。これは、抒情でも論証でもなく、第三のモードであるとしか言いようがない。 沈黙の取り扱い 反復が祈りとして機能するためには、その間に「沈黙」が必要である。大江の晩年の小説では、章と章のあいだ、文と文のあいだに、不思議なほど多くの空白が挿入される。 晩年の散文は、若い頃の文体的な熱量を失ったのではない。熱量が、より長い時間軸に分散され、反復という形式に変換されたのだ。それは老いの文体ではなく、長く生きた者だけが書ける、別種の現代文学である。 2026.3.18 · 1分
評論 HYOURON 大庭夜光と昭和後期の映像 商業映画と前衛映画のあいだに、もうひとつの層がある。長編でもなく短編でもない、ドキュメンタリーでもフィクションでもない、しかし家族写真でもない映像──昭和後期の自主映画は、その中間地帯を占有していた。 八ミリの時間 八ミリフィルムの一巻は、約三分。この物理的な制約が、映像の語りに独特の凝縮を強いた。三分という単位は、長くもなく、短くもない。観察するには十分で、物語を完結するには不十分な、奇妙な長さである。 大庭夜光のような作家は、この三分を、長編に組み立てようとしなかった。むしろ三分の独立性を尊重し、複数の三分が並列するような構造を選んだ。 編集を拒む編集 商業映画の編集は、時間を圧縮し、視点を統御する。一方、自主映画の編集は、しばしば「編集しない」ことを選択する。長まわしの映像が、そのまま提示される。 これは怠惰ではない。むしろ、観客に「編集を経由しない時間」を経験してもらうための、意図的な選択である。 上映の空間 商業映画館でも、テレビでもない上映空間──大学の教室、画廊の片隅、公民館の集会室──そうした場所で、自主映画は上映された。 その上映空間そのものが、作品の一部であった。観客は、観賞の作法を持たないまま、たまたまそこに居合わせた他者として、映像と向き合った。 大庭夜光の作品が現在残っているかどうかは確かでない。多くの自主映画作家の仕事は、フィルムの劣化と上映機会の消失によって失われていく。彼らの存在を記録することは、映像史の隙間を埋める作業である。 2026.2.4 · 1分