評論 HYOURON

大江健三郎の晩年の散文──反復と祈り

大江健三郎の晩年の小説には、初期や中期とは異なる文体が現れる。ある語句や場面が小説内で繰り返され、変奏され、また回帰する──この反復は、単なる文体的特徴ではなく、ある種の祈りの構造を持っている。本稿では、晩年三部作と呼ばれる作品群を中心に、この反復について考える。

大江の文章は、もともと長い。複文に複文を重ねる、密度の高い構造を持っていた。しかし晩年に近づくにつれて、その長さの内側で、同じ語句が螺旋のように戻ってくる回路が増えていく。

反復の機能

『取り替え子』『憂い顔の童子』『さようなら、私の本よ!』──いわゆる長江古義人三部作1では、ある共通のモチーフが繰り返し書き直される。

たとえば「取り替え子」というモチーフ──主人公の友人が自殺した瞬間、その出来事を回想する角度が章ごとに変わる。事実は同一だが、語りの位置取りは異なる。読者は、同じ事実に対して、異なる距離からの応答を経験する。

祈りの形式

なぜ反復が祈りなのか。祈りとは、答えを求める行為というより、ある対象に対して言葉を向け続ける行為である。応答が得られなくても、向け続けることそのものが、祈りを成立させる。

大江の晩年の文体は、答えのない問いに対して、語りの角度を変えながら同じ対象に向かい続ける構造を持っている。これは、抒情でも論証でもなく、第三のモードであるとしか言いようがない。

沈黙の取り扱い

反復が祈りとして機能するためには、その間に「沈黙」が必要である。大江の晩年の小説では、章と章のあいだ、文と文のあいだに、不思議なほど多くの空白が挿入される。

晩年の散文は、若い頃の文体的な熱量を失ったのではない。熱量が、より長い時間軸に分散され、反復という形式に変換されたのだ。それは老いの文体ではなく、長く生きた者だけが書ける、別種の現代文学である。