思想 SHISOU

西田幾多郎──純粋経験の現代的射程

西田幾多郎が『善の研究』(一九一一)で提出した「純粋経験」という概念は、東洋思想と西洋哲学の交点で生まれた独自の枠組みである。本稿では、この概念がなぜ百年を経ても色褪せないのか、その理由を再検討する。

西田の出発点は、主観と客観の分離以前の経験の地平を哲学的に記述しようという企てであった。この企ては、ジェイムズの「pure experience」を参照しつつも、独自の方向に進んでいく。

主客未分の地平

西田は『善の研究』第一編で、「経験する」ということが、主体が客体を認識するという二項関係に還元できないと論じる。たとえば、音楽を聴いて深く感動している瞬間、聴き手と音、感情と思考は分離されていない1

西田にとって、主客の分離は派生的なものであり、純粋経験こそが根源的なのである。哲学はこの根源を出発点に据えるべきだ、というのが彼の主張であった。

場所の論理へ

『善の研究』以降、西田の思考は「場所」の概念へと展開していく。純粋経験を可能にする「場」とは何か。それは個別の経験を包む、より大きな述語的地平である。

この「場所」の論理は、後年の「絶対無」「歴史的世界」へと連なり、京都学派の中核的な思考枠組みとなる。

現代における再読

二十一世紀のいま、西田を読み直す意義はどこにあるか。それは、認識主体の自明性を疑う現代の哲学(現象学、エンボディメント研究、4E認知科学)と、西田の議論が予期せぬ仕方で響き合うからである。

西田の文体は、初心者には決して易しくない。だが、その難解さは難解さのための難解さではない。経験の根源を記述しようとする以上、既成の語彙に頼れない局面が生じるのである。彼の苦闘の痕跡は、いまも哲学的思考の手本としての価値を持っている。