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思想 SHISOU もののあはれ──現代における再読 「あはれ」を「pity」や「pathos」と訳すと、宣長の議論は痩せてしまう。彼の論じた「あはれ」は、もっと中立的で、世界に対する開かれた感受性を指していた。 宣長の出発点 宣長は儒教的な「勧善懲悪」の枠組みで『源氏物語』を読むことに反対した。物語の本質は道徳的教訓ではなく、人物が経験する事象に対して心が動くこと、その動きを言葉にすることにあると論じる。 ここで重要なのは、「あはれ」が悲しみや哀れみだけを指さない点である。喜び、驚き、憧れ、憎しみ、嫉妬──あらゆる心の動きが「あはれ」の範疇に入る。 現代における意義 二十一世紀の私たちにとって、「もののあはれ」が示唆するのは、世界に対する受容性のあり方である。 情報過剰の時代において、私たちは反射的な判断と、効率的な処理に駆られている。しかし、宣長が見ていたのは、判断する前に世界が心に触れる、その瞬間の質であった。 美学から倫理へ 「あはれ」は単なる美学概念にとどまらない。それは、他者や事物を、自分の枠組みに即座に当てはめることを保留する作法であり、ある種の倫理的な構えでもある。 宣長は、世界を分析する以前に、世界に動かされる経験を尊重した。これは反知性ではない。逆に、知性が機能するための土壌を確保する営みである。「もののあはれ」は古典の鍵語であると同時に、現代を生きる私たちにとっての実践的な提案でもある。 2026.4.1 · 1分
思想 SHISOU 西田幾多郎──純粋経験の現代的射程 西田の出発点は、主観と客観の分離以前の経験の地平を哲学的に記述しようという企てであった。この企ては、ジェイムズの「pure experience」を参照しつつも、独自の方向に進んでいく。 主客未分の地平 西田は『善の研究』第一編で、「経験する」ということが、主体が客体を認識するという二項関係に還元できないと論じる。たとえば、音楽を聴いて深く感動している瞬間、聴き手と音、感情と思考は分離されていない。 西田にとって、主客の分離は派生的なものであり、純粋経験こそが根源的なのである。哲学はこの根源を出発点に据えるべきだ、というのが彼の主張であった。 場所の論理へ 『善の研究』以降、西田の思考は「場所」の概念へと展開していく。純粋経験を可能にする「場」とは何か。それは個別の経験を包む、より大きな述語的地平である。 この「場所」の論理は、後年の「絶対無」「歴史的世界」へと連なり、京都学派の中核的な思考枠組みとなる。 現代における再読 二十一世紀のいま、西田を読み直す意義はどこにあるか。それは、認識主体の自明性を疑う現代の哲学(現象学、エンボディメント研究、4E認知科学)と、西田の議論が予期せぬ仕方で響き合うからである。 西田の文体は、初心者には決して易しくない。だが、その難解さは難解さのための難解さではない。経験の根源を記述しようとする以上、既成の語彙に頼れない局面が生じるのである。彼の苦闘の痕跡は、いまも哲学的思考の手本としての価値を持っている。 2026.2.18 · 1分